はじまり
秋の夕方、京都の町にきんもくせいの匂いが流れていました。小学三年のみおは、星の名前を覚えるのが好きです。けれど、その日は学校で友だちに言いすぎて、胸がちくりと痛んでいました。
帰り道、みおは晴明神社の前で足を止めました。石の鳥居は夕日を受けてほのかに赤く、境内の砂利はふみしめるとさくさく鳴りました。手水の水に指をひたすと、ひやりとして、気持ちの中まで静まりました。
そこには、五芒星の印がありました。みおがじっと見ていると、細い風がすうっと吹き、紙のこすれるような音がしました。
ある日のできごと
「星は声を荒げぬものです」
みおがふりむくと、古い白い着物の男の人が立っていました。顔は月の光みたいにおだやかで、袖の先が風もないのに少しゆれていました。
みおが小さな声で聞くと、その人はにこりとしました。
「むかし、天文や暦を読み、宮中で祓いをつとめた者です。名は安倍晴明と伝わっています」
みおは思わず息をのみました。図書館の本で読んだ有名な陰陽師です。式神を使い、物怪や怨霊を鎮めたと語られる人。けれど目の前の晴明は、こわい妖怪退治の人というより、夜の空に耳をすます人のようでした。
晴明が袖をひとふりすると、境内の落ち葉が五つ集まり、小さな紙の鳥のように舞いました。
みおが目を丸くすると、晴明は首を少しかしげました。
「後の世の語りでは、そう呼ばれることもあります。目に見えぬ気配を整える小さな使い、と思えばよいでしょう」
紙の鳥はみおの肩にとまり、ふわりと温かでした。みおは今日のことを話しました。星座の名前をまちがえた友だちに、「そんなことも知らないの」と言ってしまったこと。友だちの顔がくもったこと。ごめんねが喉で止まっていること。
晴明は空を見上げました。西の色はだいだいから藍色へ変わり、一番星が針の先ほど光っていました。
「暦を作る者も、占う者も、まず空をよく見ます。よく見れば、雨の前の雲も、人の心のかげりも、少しは知れます。知ることは、いばるためではありません」
その言葉は鈴の音みたいに小さく、でも胸の奥で長く残りました。
みおが聞くと、晴明は地面に指で五芒星をなぞりました。線はすぐ砂利にまぎれましたが、みおには淡い光が見えた気がしました。
「明日の朝、同じ空を見た話から始めなさい。言葉は橋にもなり、壁にもなります。橋の方角を選ぶのです」
風がもう一度吹きました。きんもくせいの匂いが濃くなり、遠くで自転車のベルがちりんと鳴りました。みおがまばたきすると、晴明の姿は薄い月影のように消え、紙の鳥も一枚の落ち葉に戻っていました。
次の朝、みおは学校の門で友だちを待ちました。空は水色で、白い雲がうすくのびていました。
「昨日はごめんね。今度、いっしょに星の図鑑を見ない」
友だちは少し驚いて、それから笑いました。みおの胸の中で、見えない橋がそっとかかった気がしました。夕方になると、神社の方から紙のこすれるような音が聞こえたようでした。