はじまり
秋の夕方、空はうすいぶどう色になり、商店街のとうふ屋さんから湯気がほわりと出ていました。りくはおばあちゃんにたのまれて、和菓子屋の小豆を買いに行くところでした。今夜はおしるこを作るのです。
紙袋に入った小豆は、手の中でさらさら、こつこつと小さく鳴りました。りくはその音がおもしろくて、歩きながらそっとゆすりました。すると、商店街のはずれ、古い神社の裏を流れる小さな川のほうから、別の音が聞こえました。
まるでだれかが水の中で豆を洗っているような音です。川の水は石にあたってさらさらと鳴るはずなのに、その音だけははっきり耳に残りました。
りくは立ち止まりました。川へ下りる細い道には、落ち葉がぬれてはりつき、夕方の冷たいにおいがしていました。おばあちゃんが前に言っていた話を思い出します。
水辺で小豆を洗う音がしたら、のぞきこまないこと。小豆洗いは、姿を見せずに人をふらりと川べりへ呼ぶんだよ。
ある日のできごと
りくは帰ろうと足を向けました。けれど、音はまた近くで鳴りました。
ショキショキ、ザクザク。小豆とごうか、人とって食おか。
歌のようでもあり、ひとりごとのようでもありました。りくの背中がすうっと寒くなりました。でも、その声はこわい大声ではありません。しわがれた小さな声で、川の底からころころ上がってくるようでした。
神社の石垣の下で、赤茶のものがちらりと動きました。りくは一歩だけ近づき、すぐに止まりました。川へ下りる道は細く、ぬれた落ち葉がぴかぴか光っています。足を置けばつるりとすべりそうでした。
りくが息をのむと、草むらの向こうで小さな影がしゃがんでいました。背のひくいおじいさんのようで、子どものようでもあります。古い布をまとい、丸い背中をして、両手を水に入れています。
その手の中で、小豆が黒っぽく光りました。川の水は月の出る前の青さで、さわるときっと指がしびれるほど冷たいはずです。
小さな影は顔を上げずに言いました。
一合、二合、三合。米ならはかれる。豆なら数えられる。けれど、子の心はいくつじゃろ。
心通うとき
りくはなんと答えたらよいかわかりませんでした。こわくて逃げたい気持ちがひとつ。ふしぎで見ていたい気持ちがひとつ。おばあちゃんのおしるこを早く食べたい気持ちがひとつ。それから、ぬれた道に近づいてはいけないと思う気持ちもひとつ。
りくが小さく言うと、川べりの影はショキショキと小豆を洗いながら、ふふ、と笑いました。
風が吹き、神社のいちょうの葉がからからと鳴りました。りくの紙袋からも、小豆がこつんと鳴りました。すると小豆洗いは、はじめて顔を少しだけこちらへ向けました。目は細く、しわの間で水のように光っていました。こわい顔ではありません。でも、長い長い夜をたくさん知っている顔でした。
小豆はよく洗え。石をひとつ、虫をひとつ、見のがすな。数を大事にする家の食べ物は、あたたかい。
そう言うと、小豆洗いは手を水から上げました。その手には豆が一粒だけのっていました。赤くつやつやして、夕焼けのしずくのようです。
持って帰れ。けれど、川のふちへは来るな。音だけ聞いて帰る子は、足をぬらさずにすむ。
小豆の一粒は、ころんと転がって、りくの足もとの乾いた石で止まりました。りくは川へ下りず、そこから拾いました。指先にのせると、豆はふしぎにほんのりあたたかでした。
ふりかえって
りくがふりむくと、川のほうにはもうだれもいませんでした。聞こえるのは、水が石をなでるさらさらという音だけです。さっきまでのショキショキ、ザクザクは、夜の布にしまわれたみたいに消えていました。
家に帰ると、おばあちゃんは台所でなべを用意していました。りくは買ってきた小豆をざるにあけ、そっと水をそそぎました。豆たちは水の中でころころゆれ、赤や茶色に光りました。
りくはひとつ、ふたつと石がまじっていないか見ました。いつもなら急いでしまうところを、その日だけはゆっくり洗いました。指に当たる豆は小さくてかたく、ざるの中でショキショキと鳴りました。
いい音だねえ。むかしの人は、その音を聞くと、小豆洗いを思い出したんだよ。川の暗いところへ近づかないための話でもあったのさ。
りくはうなずきました。ポケット[ぽけっと]には、あの一粒が入っています。なべの中で小豆がことこと煮えると、部屋じゅうに甘くて土のようなにおいが広がりました。外では神社の木が風に鳴り、遠くの川がかすかにこたえました。
おしるこができるころ、りくは小さな器をひとつ窓辺に置きました。湯気が白くのぼり、あたたかい甘さが夜へ流れていきます。
そのとき、風のすきまからほんの少しだけ、ショキショキ、ザクザク、と聞こえた気がしました。りくは窓を開けずに、にっこりしました。小豆洗いは姿を見せず、ただ音だけを残して、谷川の夜へ帰っていったのでしょう。