はじまり
夕方の商店街は、焼きたてのたい焼きの甘い匂いと、八百屋さんの元気な声でいっぱいでした。三年生のみおは、学校の帰りに、おばあちゃんの店へ寄りました。
おばあちゃんの店は、小さな古道具屋です。古い茶碗、すべすべした木箱、柱時計、色あせた絵葉書。どれも静かに息をしているようでした。
「みお、奥の押入れを少し手伝ってくれるかい」
おばあちゃんに言われて、みおは畳の部屋へ入りました。外の光が障子を通って、牛乳みたいに白く広がっています。押入れの下には、細長い桐箱がありました。
ふたを開けると、かすかに紙とお香の匂いがしました。中には、古い巻紙が何本も入っていました。糸で結ばれ、端は月の色みたいに黄ばんでいます。
みおが一本に指を触れると、さらり、と風もないのに紙が鳴りました。
その音は、だれかが小さくためいきをついたようでした。
ある日のできごと
おばあちゃんは急に静かな声になりました。「昔の手紙には、書いた人の心が残ることがある。うれしい心も、かなしい心もね」
みおはうなずきました。でも、桐箱の奥で、一本だけゆるくほどけかけた巻紙が気になりました。細い墨の字が、少しだけ見えています。
その夜、みおは家の食卓でカレーを食べながらも、あの巻紙のことを考えていました。じゃがいもの湯気も、スプーンの音も、どこか遠く感じます。
次の日は土曜日でした。みおが店の戸を開けると、ちりん、と鈴が鳴り、奥の部屋から紙のすれる音が聞こえました。
おばあちゃんは配達に出ています。みおは息をのみ、畳の部屋へ向かいました。
桐箱のふたは少し開いていました。巻紙が畳の上にほどけて、白い道のように伸びています。その先に、ひとりの女の人が立っていました。
長い黒髪、うすい着物、手には巻紙。でも、足元は紙の影のようにぼんやりしていました。
その声は鈴のようで、遠い雨のようでもありました。「古い文に積もった思いが、形を得たもの」
心通うとき
文車妖妃は、巻紙をそっと広げました。墨の字が流れるように並んでいます。みおにはむずかしくて読めません。でも、字の間から、梅の花の匂いと、冬の夜の冷たさがふわりと出てきました。
みおが小さく聞くと、文車妖妃は目を伏せました。
「返事を待ち、待ちつづけた文。読まれたのか、読まれなかったのか。それさえ分からぬまま、箱の底で眠っておりました」
みおは、胸の奥がちくりとしました。昨日、友だちのリナから来た短いメッセージを、まだ返していなかったのです。たいした用事ではないと思っていました。でも、待っている時間は、もしかしたら長く感じるのかもしれません。
「文車妖妃さんは、その人をうらんでいるの」
女の人の袖が、さらさらと鳴りました。
「うらみは、紙を重くします。けれど、思いはそれだけではありません。好きでした、会いたかった、元気でいてほしかった。言えずに残った言葉が、わたくしをここに立たせているのです」
そのとき、店の前を豆腐屋さんの自転車が通り、ぷう、とラッパの音がしました。現代の商店街の音が、古い文の静けさにまざります。
みおは自分のランドセルから国語のノートを出しました。そして、ていねいに一枚を切り取りました。
「読めない昔の字のかわりにはならないけど、わたしが書いてもいいですか。待っていた気持ちが、少し休めるように」
文車妖妃は驚いたように目を上げました。みおは鉛筆を持ち、紙の上に書きました。
あなたの文は、いまここで読まれました。待っていた気持ちは、たしかにありました。どうか春の風のように、軽くなりますように。
書き終えると、窓の外から金木犀の匂いが流れてきました。文車妖妃の巻紙が、ふわりと明るく見えました。
ふりかえって
文車妖妃は、みおの紙を両手で受け取りました。指先は冷たそうなのに、紙に触れた場所だけ小さな灯のように温かく見えました。
「文は、運ばれるために生まれます。読まれ、思われ、しまわれ、また開かれる。あなたは止まっていた車を、ほんの少し動かしました」
その言葉の終わりに、畳の上の巻紙が音もなく巻き戻っていきました。白い道は細くなり、桐箱の中へおさまります。
文車妖妃の姿も、夕焼けの色を吸いこんだ紙のように薄くなりました。
「だれかに届けたい言葉を、粗末になさいませぬよう」
そう言って、女の人は消えました。あとには、古いお香の匂いと、みおの書いた紙だけが残っていました。
ちょうどそこへ、おばあちゃんが帰ってきました。みおが起きたことを話すと、おばあちゃんは少しも笑わず、桐箱に手を合わせました。
「文車妖妃に会ったのかい。江戸の絵師、鳥山石燕が描いた妖怪だよ。古い恋文の思いが女の姿になったと言われている」
みおは桐箱をそっと閉めました。木のふたは手のひらになめらかで、少し温かい気がしました。
帰り道、夕空は桃色から藍色へ変わっていました。みおはスマートフォンを開き、リナへ返事を打ちました。
おそくなってごめんね。明日、いっしょに図書館へ行こう。
送信の音はとても小さかったけれど、みおにはどこかで古い車がころりと動いた音のように聞こえました。