はじまり
鹿児島から引っこしてきた祖母の家には、古い木綿の手ぬぐいが何枚もありました。夏の終わり、商店街の八百屋から青いみかんのにおいが流れ、夕方の空はうすいだいだい色に染まっていました。
小学二年生のそうたは、祖母の小さな針箱を持って、近くの神社へ向かいました。神社では秋祭りの準備があり、ちょうちんを結ぶ人たちが赤いひもを風にゆらしていました。
祖母はそう言ってから、ふと声を低くしました。
「鹿児島の大隅や肝付のほうではね、夕暮れに一反木綿が出ると言うんだよ。長い白い木綿が、音も声もなく飛んで、顔にふわりと巻きつくんだ」
けれど、祖母がたたんだ手ぬぐいをそっとなでる指は、まじめでした。木綿の表面は少しざらりとして、洗った日なたのにおいがしました。
ある日のできごと
神社の境内は、屋台の木の板を打つ音や、たこ焼きの鉄板をこする音でにぎやかでした。そうたは社務所の前で針箱を渡し、帰りに手水舎の水で指を冷やしました。石のふちが昼の熱を少しだけ残していました。
帰り道、そうたは近道をしようと、川ぞいの細い道へ曲がりました。住宅の窓に明かりが一つ、また一つともり、川面は灰色に光っていました。草の間から虫の声がしみるように聞こえます。
そのとき、目の前を白いものがすうっと横切りました。
はじめはレジ袋かと思いました。けれど、それは袋ではありません。幅は細く、長さは何メートルもありそうで、洗いたてのさらしのように白い布でした。風がないのに、ひらり、ひらりと空を泳いでいます。
音はしません。鳥の羽音も、紙のかさこそいう音もありません。夕暮れの色の中で、その白さだけがやけに近く見えました。
口に出したとたん、白い布はくるりと向きを変えました。まるでそうたの息を知っているかのように、顔のほうへふわりと降りてきたのです。
心通うとき
そうたは祖母の話を思い出しました。顔や首に巻きつく。息を詰まらせる。追い払うには、身を低くしてやり過ごす。
そうたはとっさにしゃがみました。ランドセルが背中でごつんと鳴り、ひざに土手の湿った土のにおいが近づきました。
白い布は、そうたの頭の上を音もなく通り過ぎました。けれど、すぐに戻ってきます。川のほうから冷たい風が吹き、布の端がそうたのほっぺたをかすめました。水でしぼった手ぬぐいのように冷たく、でも少しなつかしい肌ざわりでした。
そうたはこわくて目をつぶりそうになりました。でも、足元に何かが落ちているのに気づきました。昼間、古着の店の前から風で飛んできたのか、破れた白い布きれがどろにまみれていました。
そうたは自分のポケットから、祖母にもらった小さな手ぬぐいを出しました。角にほころびがあり、今日、針箱で縫ってもらうつもりだったものです。
一反木綿は答えません。声も顔もありません。ただ、白いからだを川風の中でゆっくり波のようにくねらせました。
そうたは落ちていた布きれを拾い、泥を軽く払いました。すると、一反木綿は近づいてきました。今度は顔をおおうためではなく、布きれを包むようにふわりと丸くなりました。
その白さの中から、昔の洗い水のにおい、日なたで乾いた木綿のにおい、誰かの手で大切にたたまれた記憶のようなものがふわっと広がりました。
ふりかえって
商店街の角まで戻ると、魚屋のシャッターが半分だけ下り、焼き魚のにおいが夕飯のにおいにまざっていました。そうたの手には、泥を払った布きれが残っています。一反木綿の姿はもう見えませんでした。
祖母は玄関でそうたを見て、ほっと息をつきました。そうたが布きれのことを話すと、祖母は静かにうなずきました。
「一反ほどの木綿が舞う話は、こわい話でもあるけれど、古い物を粗末にしない話でもあったのかもしれないね」
その晩、食卓にはみそ汁の湯気が上がり、なすの煮物が甘く光っていました。祖母は拾った布きれを洗い、そうたの手ぬぐいのほころびに当て布として縫いつけてくれました。針が布を通るたび、ぷつ、ぷつと小さな音がしました。
次の夕方、そうたは神社の近くを通りました。空には一枚の白い雲が細くのび、風に流れていました。ふいにその雲の端がひらりと曲がった気がしました。
そうたは立ち止まり、頭を少し下げました。こわい気持ちはまだ胸に残っていました。でも、その横に、洗った木綿みたいなやわらかい気持ちも残っていました。
一反木綿は声を出さず、音も立てず、夕暮れの道をひらひら行く妖怪です。けれどそうたには、その白い背中が、「ちゃんと帰れよ」と言っているようにも見えたのでした。