はじまり
夕方の神社は、秋の匂いでいっぱいでした。いちょうの葉は金色に光り、屋台のしょうゆの香りが風にまじります。小学三年のりんは、母と秋祭りの手伝いに来ていました。
社務所のすみには、古い神楽鈴が置かれていました。白い紙垂のついた小さな鈴が、いくつも束ねられています。宮司さんは、「これは神楽で使う大事な鈴だよ。鈴の音は、神さまをお招きするとも言われるんだ」と教えてくれました。
りんはそっと耳を近づけました。まだ誰も触っていないのに、ちりん、とひとつだけ音がしました。冷たい空気がほおをなで、りんの胸まですずしく鳴った気がしました。
ある日のできごと
祭りの舞台では、子どもたちの神楽の練習が始まりました。笛はぴいひゃら、太鼓はとん、とん。けれど、りんは一歩を出すところで足が止まってしまいます。みんなに見られると思うと、指先がこわばりました。
その時、拝殿の奥から細い鈴の音が聞こえました。ちりん、しゃらん。音はまるで白い糸のように空気をすべり、りんを古い絵馬の並ぶ場所へ連れていきました。
そこに立っていたのは、女の人の姿をしたふしぎなものです。頭上には神楽鈴をのせ、顔は丸くすずやかで、目もとにやわらかな光がありました。着物のすそは風もないのにさやさや揺れています。
「あなたはだれ」りんが小さく聞くと、その人は鈴の音みたいな声で答えました。「人はわたしを鈴彦姫と描いたことがあります。むかしの絵の中でね」
心通うとき
鈴彦姫はりんの前で、ゆっくりと手を上げました。すると頭上の鈴が、しゃら、しゃら、と鳴りました。大きすぎず、小さすぎず、秋の虫の声とまざる音でした。
「鈴は、ただにぎやかに鳴るものではありません。遠いものに気づいてもらう音。心のほこりをはらう音。そして、こわばった足を一歩だけ軽くする音です」
りんは自分の手を見ました。緊張で冷たかった指が、少しあたたかくなっています。「わたし、まちがえたらどうしようって思って」
鈴彦姫はほほえみました。「天岩戸のお話にも、舞と音で明るさを招く女神が出てきます。上手に見せるためだけの舞ではありません。そこにいるみんなの心を、こちらへ招くための舞もあるのです」
ちりん。音が一つ落ちると、りんの足元の落葉が小さく回りました。りんは深く息を吸いました。土の匂い、綿あめの甘い匂い、木の床のひんやりした感じ。ぜんぶがりんの中に入ってきました。
ふりかえって
舞台へ戻ると、練習はもう終わりかけていました。母が心配そうに手を振ります。りんはうなずき、最後にもう一度だけ舞をさせてください、と言いました。
笛が鳴り、太鼓が響きます。りんは袖を上げ、教わった通りに一歩、また一歩と進みました。まちがえそうになった時、どこかでちりん、と音がしました。その音に押されるのではなく、そばに並んで歩いてもらうようでした。
終わると、見ていた人たちから小さな拍手が起こりました。りんは顔を赤くしながら笑いました。拝殿の奥を見ると、鈴彦姫の姿はもうありません。古い神楽鈴だけが、夕日を受けて淡く光っていました。
帰り道、りんのポケットからちりん、と音がしました。中には何も入っていません。けれどりんはおどろきませんでした。鈴彦姫は、絵の中から来て、鈴の音だけを残して帰ったのかもしれません。
夜の空に星が出るころ、りんはもう一度だけ耳をすませました。町の音の間に、ちいさなしゃらん。明日の一歩を招くような、やさしい鈴の音でした。