はじまり
まことは冬休みに、家族と岩手県の古い温泉旅館へ行きました。駅を出ると、空気はきんと冷たく、息が白い雲になりました。道の両側には雪がふんわり積もり、長靴で踏むときゅっ、きゅっと小さな音がしました。
旅館は木の柱が黒く光る、昔からの建物でした。玄関には炭の匂いが少し混じり、奥から温泉の湯けむりの匂いが流れてきます。女将さんはにこにこして、「この家には古いお座敷がありますよ」と言いました。
通された部屋は、青い縁の畳が広がる客間でした。床の間には南天の赤い実が飾られ、障子の向こうでは雪がしんしんと降っていました。まことが畳に手をつくと、ひんやりして、でもどこかやわらかい感じがしました。
夕食の前、まことは部屋のすみでこまを回しました。学校の昔遊びの時間に習ったばかりです。こまはぶうんと低く鳴り、畳の上を小さく踊りました。その時、廊下の奥から、たたた、と子どもの走る足音が聞こえました。
ある日のできごと
まことは顔を上げました。お父さんもお母さんも荷物を片づけています。妹はもう浴衣の帯を結んでもらっているところでした。だから、廊下を走った子はだれでもありません。
また、たたた。今度は天井の上を小さな足が通るような音です。つづいて、ころん、と何かが転がる音。まことのこまが勝手に動いたのかと思いましたが、こまは手のそばに静かに倒れていました。
「古い旅館だから、音がよく響くのよ」とお母さんは笑いました。でもまことは、音の中にくすくす笑う声が混じっていた気がしました。夕食には焼き魚と熱い汁、山菜の小鉢が並びました。湯気の向こうで家族の声がまるく聞こえ、外の風の音もこわくありませんでした。
食事のあと、まことは一人で客間に戻りました。障子の雪明かりで部屋はうすい青に見えます。ふと、畳の真ん中に小さな影が座っていました。前髪が額にかかり、ほっぺたはりんごのように赤い子どもです。古い絣のような着物を着て、まことのこまを指でちょんとつついていました。
心通うとき
まことは息をのみました。でも、その子の目はいたずらっぽく、こわい光ではありません。「きみ、だれ」と小さな声で聞くと、その子は首をかしげました。答えの代わりに、こまのひもをすうっと巻き、ひょいと投げます。こまはまことが回すよりずっと長く、まるで畳の目を読むように静かに回りました。
「すごい」とまことが言うと、その子は歯を見せずににこっと笑いました。廊下から女将さんの足音が近づくと、子どもの姿は障子の白さに溶けるように消えました。まことは思わずこまを抱きしめました。
女将さんはお茶を持って来て、「あら、こまが上手に回った音がしたね」と言いました。まことがさっきの子のことを話すと、女将さんは少し声を低くして、「それは座敷童子かもしれません」と言いました。
座敷童子は、東北の古い家屋に住むと伝わる妖怪です。赤い顔をした童子の姿で、お座敷や客間に現れることがあります。走る音や笑い声だけが聞こえることもあるそうです。人を困らせるためではなく、その家を見守るようにいると信じられてきました。
「座敷童子を見た家には幸いが来る、と昔から言います。でも大切なのは、見たことを自慢することではないの。家を明るくして、食卓をにぎやかにして、畳をていねいに使う。そういう気持ちが好きなのかもしれないね」
その夜、まことはふとんの中で耳をすませました。すると枕元で、こまがほんの少しころりと鳴りました。障子の向こうに小さな影が座り、雪を見ているようでした。
ふりかえって
朝になると、雪はやみ、庭の木の枝から光がぽたぽた落ちるようでした。まことのこまには、赤い糸がひと巻き結ばれていました。だれの糸かはわかりません。さわると少しあたたかく、古い布の匂いがしました。
朝食の食堂では、旅館の人たちが忙しそうに動いていました。ごはんの湯気、味噌汁の香り、茶碗の触れ合う音。まことはいつもよりゆっくり手を合わせました。妹が笑うと、どこかで同じくらい小さな笑い声がした気がしました。
帰る時、女将さんは玄関でまことに言いました。「この家では、夜に子どもの足音がすることがあるの。金田一のあたりにも、座敷童子の話はたくさん残っています。会えた人は、そっと胸にしまうのがいいね」
まことはうなずきました。旅館の屋根から雪がざざっと落ち、庭の石灯籠に朝の光が当たりました。車に乗る前、まことは客間の方を見ました。障子のすきまに、赤いほっぺの影がほんの一瞬、見えたような気がしました。
それから家に帰っても、まことは食卓であった出来事をよく話すようになりました。学校でこまを回す時も、畳の部屋を使う時も、どこかに小さな友だちが座って見ている気がします。座敷童子はもう姿を見せません。でも、古い家のあたたかさと、だれかがそっと見守る気配は、赤い糸のようにまことの心に残りました。