はじまり
春の終わり、すみだの町には雨のにおいがのこっていました。古い神社のとなりに小さな商店街があり、夕方になると、たい焼きのあまい湯気と、ぬれた石畳のにおいがまざります。
三年生の湊は、学校の帰りに、祖父の辰夫さんが持つ拍子木を見せてもらいました。二本のかたい木を打つと、カチン、カチン、と冬の星みたいに澄んだ音がします。
「むかしはね、火の用心と言いながら、町を回ったんだよ」
辰夫さんはそう言って、ゆっくり拍子木を鳴らしました。カチン、カチン。少し間をおいて、遠くの路地から、カチン、カチン、と同じ音が返ってきた気がしました。
湊が耳をすますと、風がのれんをなでる音だけ。けれど胸の中には、見えないだれかがあとを歩いているような、くすぐったい感じがのこりました。
辰夫さんは目を細めて言いました。「本所には本所七不思議という話がある。その一つが、送り拍子木だ」
あめのよるのできごと
その夜、町会の見回りがありました。商店街の人たちが黄色い反射たすきをかけ、提灯を持って歩きます。湊も辰夫さんのとなりを歩きました。雨はやんだばかりで、アスファルトは黒く光り、電柱の明かりが水たまりの中でゆれていました。
「火の用心」
辰夫さんの声にあわせて、みんなも声を出します。カチン、カチン。拍子木の音は、シャッターのおりた店、細い路地、川へ向かう道にはねていきました。
見回りが終わり、辰夫さんが拍子木をふところへしまった時です。
カチン、カチン。
だれも打っていないのに、うしろから同じ調子の音がしました。湊ははっとして振り返りました。そこにはぬれた路地、白いガードレール、雨粒をつけたあじさいがあるだけでした。
「いまの、だれ」
湊の声は少し小さくなりました。辰夫さんは急がずに耳をすまし、にっこり笑いました。
「送り拍子木かもしれないね。夜回りの音についてきて、見えない拍子木が送るんだ。江戸の本所でも、そう言われた」
また、カチン。こんどは一つだけ。音は角のむこうでほどけるように消えました。
みえないだれか
湊はこわいような、たしかめたいような気持ちで、角まで歩きました。そっとのぞくと、古い家の軒下に、ほそい雨のしずくがならんでいます。しずくは街灯を受けて、銀色の糸みたいでした。
カチン、カチン。
音は湊の足元ではなく、背中の少し上を通っていくようでした。木と木が合う乾いた音なのに、雨を吸った町の中でやわらかく聞こえます。
「おまえさんも、町を見ているの」
湊は小さく言いました。返事はありません。けれど、カチン、と一度だけ鳴りました。まるでうなずいたみたいでした。
辰夫さんは湊の肩に手を置きました。「むかしの人は、これを壁や路地に返った音だとも考えた。けれど、雨の夜に拍子木を打たないのに聞こえた、という話もある。わからない余白を残して、町は古い記憶をしまっているんだ」
その時、商店街の奥で、かすかに焦げたにおいがしました。パン屋さんの裏の小さな電灯がじりじりと音を立てています。辰夫さんが店主さんを呼び、みんなで確かめると、古い延長コードが熱くなっていました。すぐに電源を切ると、焦げたにおいは薄くなりました。
湊はもう一度、暗い路地へ向きました。カチン、カチン。音は遠くへ去っていきます。ありがとう、と言う前に、雨上がりの風がほおをなでました。
あさにのこったおと
次の朝、湊は学校へ行く前に、神社の石段へ寄りました。空はよく晴れ、葉っぱの先から落ちるしずくが、ぽたり、ぽたりと鳴っています。ゆうべの拍子木の音はもう聞こえません。
けれど湊の耳には、カチン、カチン、という調子がまだ残っていました。こわがらせる音ではなく、ひとりで帰る人の背中を少し明るくする音。火を気にかけ、町を気にかけ、見えないところでそっとついてくる音でした。
放課後、湊は図書室で本所七不思議の本を開きました。そこには、割下水の近くで夜回りのあとから拍子木が鳴ったこと、振り返っても人影がなかったこと、送り提灯という似た話もあることが書かれていました。
湊はノートにこう書きました。「送り拍子木は、町のうしろを歩く音」
その晩、家族の食卓で、湊はゆうべのことを話しました。みそ汁の湯気、焼き魚の香り、窓の外の遠い車の音。いつもの夜が、少しだけ古い江戸の夜とつながった気がしました。
食後、辰夫さんが拍子木を一度だけ鳴らしました。カチン。しばらくして、外の路地で、カチン、とやさしい音が返りました。湊は振り返らず、ただ窓を少し開けました。夜風の中で、見えない送り拍子木が、今日も町を送っているようでした。