はじまり
秋の夕方、そうたは学校の帰りに、商店街の奥にある小さな神社へ寄りました。明日は地域のお祭りで、境内には赤い提灯がならび、まだ灯りの入らない紙の白さが風にゆれていました。
手水舎の水はつめたく、石の上には黄色いいちょうの葉がぴたりとはりついています。そうたは明日の合唱が上手にできますように、と思いながら、絵馬掛けの前で足を止めました。
そこには受験、病気平癒、家内安全、勝利祈願など、たくさんの願いが木の札に書かれていました。いちばん端に、色のうすれた古い絵馬が一枚あります。馬の絵は少しかすれていましたが、黒い目だけが夜の水みたいに光って見えました。
あるひのできごと
そうたが顔を近づけると、ふわりと古い木の匂いがしました。おじいちゃんの家のたんすを開けた時のような、少し甘くてしずかな匂いです。絵馬の裏には、もう読みにくい文字で、だれかの願いが残っていました。
その時、からん、と社殿の鈴が鳴りました。風は止んでいるのに、です。そうたが目をこすると、絵馬掛けのそばに白い着物の女が立っていました。髪は夜のように長く、顔は月の光をうすくのせたようでした。
女はこわい声ではなく、木の葉がこすれる音のように言いました。「その絵馬には、長い年月の祈願がしみています。人の願いは、雨にぬれても、字がうすれても、すぐには消えません」
そうたは胸がどきどきしました。「あなたは、だれですか」
女は少し笑いました。「絵馬の精。絵の姿や書かれた思いに寄りそって、まどろみの時に人へ伝えるものです」
こころかようとき
そうたは思わず、古い絵馬のひもに手をかけました。よく見たくて、少しだけ外そうとしたのです。すると、指先にぴりっと冷たい感じが走りました。
絵馬の精は静かに首をふりました。「奉納されたものは、神仏へ預けられた便りです。おもしろがって外したり、笑ったりしてはなりません。古くても、そこに願った人の一日があります」
そうたは手を引っこめました。絵馬には、病が軽くなりますように、と書いてあったようです。何十年も前の字かもしれません。そうたは見知らぬ人が、ここで頭を下げた姿を思い浮かべました。
「ぼくの願いも、ここに残るのかな」
「残ります。けれど願いは、木の札に閉じこめるものではありません。書いたあと、少しずつ歩く人の背中を押すものです」
遠くで焼きそばの匂いが流れてきました。お祭りの準備をする大人たちの声も聞こえます。そうたは明日の歌を小さく口ずさみました。女の袖がふわりとゆれ、絵馬の馬の目がやわらかく細くなった気がしました。
ふりかえって
次の朝、そうたは早く目が覚めました。夢だったのか、ほんとうだったのか、枕元にはいちょうの葉が一枚だけ置かれていました。葉は神社の石畳と同じ、ひんやりした匂いがしました。
放課後、合唱の前に、そうたはもう一度、神社へ行きました。新しい絵馬を買い、ていねいな字で、「みんなと声を合わせられますように」と書きました。うまく歌えますように、ではなく、みんなと合わせることを願ったのは、昨夜の言葉が胸に残っていたからです。
絵馬を掛ける時、古い馬の絵馬がことりと鳴りました。そうたは小さく頭を下げました。すると風の中で、木の葉がこすれるような声がしました。
「よい道を」
お祭りの舞台で、そうたの声は大きくはありませんでした。でも、となりの友だちの声とまざると、あたたかい布を広げたようにやさしく響きました。
夕暮れ、神社の提灯に灯りが入るころ、絵馬掛けの古い絵馬は静かに揺れていました。だれかの願いと、そうたの願いと、これから来る人の願いを、そっと聞いているようでした。