はじまり
六月の終わり、町の小学校では日曜に夏越の小さなお祭りを開く準備をしていました。校庭のむこうの神社からは、しめった木の匂いと、笹の青い香りが風に混じって届きます。けれど、空は毎日、灰色の雲でふたをされていました。
三年生のみおは、教室の窓にてるてる坊主をつるしました。白いティッシュに顔を描き、赤い糸をきゅっと結びます。となりのりくは、「これで晴れたら、やきそばの屋台も出るね」と鼻を鳴らしました。まだ降っていない雨の匂いが、廊下までしっとり入ってきます。
放課後、先生に頼まれて、みおとりくは神社の社務所へ飾りの紙を届けに行きました。石段は雨粒のあとで黒く光り、苔は指でさわると冷たそうです。鳥居の下に立つと、雲の切れ間から細い光が一本、すうっと落ちてきました。
その光の中に、白くて丸いものがちょこんといました。坊主頭のようで、てるてる坊主にも似ています。けれど布ではなく、日なたの湯気を丸めたように、ふわりと揺れていました。
ある日のできごと
「こんにちは」と、みおが小さく言うと、白いものは首をかしげました。顔は墨で点を打ったみたいに簡単で、口は糸ほど細い線です。けれど、その目の奥は、よく晴れた日の水たまりのようにきらっとしていました。
「ぼく、てるてる坊主?」りくが聞くと、白いものは袖もないのに胸を張りました。「ひよりぼう」と言った声は、からりと乾いた竹の鳴る音に似ていました。「晴れた日に顔を出す。雨の日は出ぬ。常陸国の山にもそんなふうに描かれたことがある」
みおは、図書室で見た妖怪の本を思い出しました。江戸の絵師、鳥山石燕の絵に出てくる、晴天を司る妖怪。くわしい昔話はあまり残っていないけれど、晴れの日に現れ、雨の時は姿を見せないと書かれていた気がします。
「じゃあ、お祭りを晴れにしてくれる?」りくが身を乗り出しました。ひよりぼうは、神社の屋根の端を見上げました。ぽつん、ぽつん。雲からこぼれた雨が杉の葉を鳴らします。すると、ひよりぼうの輪郭が少し薄くなりました。日なたの湯気が風にほどけるようでした。
「雨が来ると、わしはここに長くはおれぬ」ひよりぼうは静かに言いました。「晴れを呼ぶと言われるが、雲を力ずくで押しのけるものではない。人が空を見て、日和を願う。その願いのそばに立つのだ」
心通うとき
雨はすぐに上がりました。けれど空はまだ白く重たく、境内の砂は足の裏にしっとりつきました。みおは社務所の縁側で、濡れない場所を探して紙を広げました。「願うそばに立つって、どういうこと?」
ひよりぼうは、くるりと回って、みおの作ったてるてる坊主を見ました。「白い人形をつるして晴れを願う所はあちこちにある。日和坊主と呼ぶ所もある。だが、わしがその始まりと決まったわけではない。昔の人は空に耳をすませ、祈りを形にしたのだろう」
りくは空を見ました。雲の底は羊羹みたいに厚く、遠くのビルの窓だけが銀色に光っています。「晴れろ、晴れろって言うだけじゃだめなの?」
「だめではない」ひよりぼうは笑いました。笑うと、まわりの空気が少し乾いて、畳を干した日の匂いがしました。「けれど雨も山の木を育て、田を満たす。晴れだけを欲しがると、空の話の半分を聞きのがす」
みおは筆ペンで、小さな短冊に書きました。「お祭りの時間だけ、空がにこにこしますように」。りくは少し考えて、「雨が降ったら、雨の音も聞けますように」と書きました。二人が短冊を笹に結ぶと、濡れた葉がさらさらと鳴りました。
ひよりぼうは鳥居のほうへ進みました。雲の薄い所から、夕方の光が柔らかく差し、石畳に小さな金色の四角を作ります。その中に入ると、ひよりぼうはまた少しはっきりしました。「よう聞いた。空にも都合がある。だが、願いが丁寧なら、日和は道を探すこともある」
ふりかえって
お祭りの朝、みおは雨だれの音で目を覚ましました。胸がきゅっと小さくなりましたが、窓を開けると、雨は細く、風は涼しく、土の匂いがやさしく立っていました。学校へ着くころには、雲の端が明るくなり、神社の森から鳥の声が聞こえました。
昼になると、雨はふっと止みました。雲は残っていましたが、ところどころに青い窓が開き、校庭の水たまりには白いテントと子どもたちの赤いうちわが映りました。やきそばの甘いソースの匂い、綿あめの砂糖の匂い、太鼓のどん、どんという音が混ざって、町は少し特別に見えました。
みおとりくは神社の笹を見に行きました。短冊は風に揺れ、昨日の雨を小さな玉にして光らせていました。その葉陰に、白い丸いものが一瞬、ちょこんと見えました。
「ひよりぼう!」りくが呼びました。けれど次の瞬間、白い姿は日ざしに溶けるように薄くなりました。かわりに、笹の先から落ちた水滴が、みおの手の甲にぽとりと当たりました。冷たいのに、どこか温かい気がしました。
夕方、片づけが終わるころ、空には淡い夕焼けが広がりました。みおのてるてる坊主は、教室の窓でくるくる回っています。顔は少しにじんでいましたが、前より笑っているように見えました。
みおは思いました。ひよりぼうは、晴れを運ぶ大きな力ではなく、空を見上げる気持ちのそばにいる小さな影なのかもしれない。雨の日には見えないけれど、雨が止んだ後の光の中で、そっと手を振っているのかもしれない。