はじまり
梅雨の彦根は、夕方になると琵琶湖からしめった風が吹いてきます。小学三年のそうたは、祖父の小さな舟小屋で、雨の音を聞いていました。とん、とん、とん。屋根を打つ雨は、太鼓よりやわらかく、眠い歌のようでした。
その夜は、近くの神社で夏越の準備があり、湖岸の道に提灯を運ぶことになっていました。けれど雨が強くなり、道はぬかるみ、祖父は古い蓑を出しました。
「昔の雨具や。ちくちくするが、雨をよくはじく」
そうたが羽織ると、藁の匂いと湖の冷たさが背中にくっつきました。舟小屋の外では、灰色の湖が息をしているように、ちゃぷ、ちゃぷと鳴っていました。
あめのよのひかり
祖父とそうたは、湖岸を少し歩き、桟橋へ出ました。提灯は油紙に包まれ、そうたの腕の中でかさりと鳴ります。雨は細く、けれど切れ目なく降っていました。
そのとき、そうたの胸のあたりで、ぽつん、と青白い光がともりました。蛍みたいに小さく、火の匂いはありません。熱くもありません。
「おじいちゃん、これ」
祖父は目を細めました。「ああ、蓑火かもしれん」
光はひとつ、ふたつ、みっつ。蓑の藁の先につき、星の瞬きのようにちかちかしました。そうたはあわてて手で払いました。すると、光は消えるどころか、ぱらぱらと増えました。小さな夜空を着ているみたいでした。
「払うと増える、と言うんや。燃えはせん。けれどさわがんでよい」
祖父の声は、雨の音にまじって静かでした。
ふねのうえのまたたき
桟橋の先で、風がふわりと向きを変えました。湖の水の匂いが濃くなり、遠くで船の鈴がりん、と鳴った気がしました。そうたは蓑にともる蓑火を見つめました。こわい火というより、だれかが暗い水の上で合図を送っているようでした。
祖父は昔話をぽつりと話しました。「旧暦五月の雨夜、舟に乗る者の蓑につく、と彦根では言うた。水で亡くなった人の思い、と言う人もおった。けれど、火を点せば退く、とも、待てば消える、とも言う」
そうたは提灯の中の小さな明かりをそっとつけました。黄色い灯が雨を丸く照らすと、蓑火の青白さは少し弱まりました。けれどすぐには消えず、名残の星のようにまたたきます。
そうたはもう払いませんでした。ただ、湖へ向かって小さく頭を下げました。雨の粒がほおを流れ、冷たいのにどこかあたたかく感じました。
ひかりのあと
しばらく待つと、蓑火はひとつずつ薄くなりました。ぽう、ぽう、と息を吐くように消え、最後のひとつが藁の先で小さく揺れて、雨の闇へ溶けました。蓑には焦げ跡もなく、ただしっとりと重いだけでした。
神社へ着くと、茅の輪の青い草の匂いがしました。提灯の灯が石畳ににじみ、雨の水たまりには小さな月みたいな光がいくつも浮かびました。
そうたはだれにも大げさに話しませんでした。ただ、祖父と二人で蓑を干しながら、「払わないで見るほうが、よく見えるものもあるんやね」と言いました。
祖父はうなずきました。「湖には湖の記憶がある。雨の夜は、それが少し光るのかもしれんな」
翌朝、雨は上がり、琵琶湖は銀色に光っていました。そうたの手には、まだ藁のちくちくした感じが残っていました。