四歳の娘が、押し入れの隙間を じっと 見ている。 ふすまの 黒い 線の 奥に、 何かが いるかもしれない、と 言う。 こちらが 覗いても、 当然ながら 何も いない。 それでも 娘は そこから 離れず、 しばらく 黙って 立っている。 怖いのか、と 訊くと、 首を ふる。 「こわくない。 でも、 いるの」。
子どもが 妖怪に 惹かれるとき、 そこに あるのは 恐怖 ではなく、 恐怖の 一歩 手前にある 関心である。 暗がりに 何かがいる、 と 感じる 力は、 大人になるにつれ ゆっくり しぼんでいく。 しかし 子どもにとって、 その 感覚は まだ 世界の 一部 なのだ。
怖がる前に 知りたがる
発達心理学では、 三歳から 七歳ごろの 子どもは「世界を 説明する 言葉」 を 急速に 増やしている 時期だとされる。 風が 吹けば 何かが 動き、 夜になれば 何かが 出る ─ そういう 因果の あいまいな 出来事に、 子どもは 名前を 与えたがる。 名前のないものは、 落ち着かない。 だから 怖いものを 怖がる前に、 まず 知りたがる。
押し入れの 奥を 覗きに行く、 階段の 下で じっと 耳を すます、 墓地の 横を わざわざ 通る ─ こうした 行動は、 怖いもの見たさ という ひとことで 片づけられがちだが、 実際には もう少し 静かな 作業が 進んでいる。 不安に 形を 与え、 それを 自分の 手元に 置きなおす ための 試行錯誤である。
不安に 「形」を 与える
児童心理学者の Bruno Bettelheim は、 童話に 出てくる 魔女や 狼や 鬼が、 子どもの 内面の 葛藤を 外側に 引き出す 装置として 働く、 と 論じた。 怖い 存在は 単に 恐ろしいのではなく、 子どもが 自分の 中に 持て余している ものを 仮に 預けておくための、 一時的な 住まいなのだという。
Fairy tales, in contrast to any other form of literature, direct the child to discover his identity and calling, and they also suggest what experiences are needed to develop his character further.Bruno Bettelheim, The Uses of Enchantment: The Meaning and Importance of Fairy Tales (1976)
この 視点を 妖怪に 当てはめると、 いくつか 見えてくることがある。 たとえば 兄弟げんかで 暴れた 夜、 子どもが 鬼の 絵を じっと 見つめる ことがある。 自分の 中の 手に負えない 力を、 鬼という 形に 預けて、 一度 距離を とってみる。 鬼が 怖いのではなく、 自分の 攻撃性が 怖い。 けれども その 名前を まだ 知らないから、 鬼で 代用する。
家の 中の もやもやした 不安は 座敷童子という 守り神の 形を 借りて、 むしろ 親しみやすい 同居人に 変わる。 川辺の リアルな 危険は 河童 という ひょうきんな 姿を 与えられて、 警戒と 笑いの あいだに 着地する。雪女 の 物語に 子どもが 静かに 引きこまれるとき、 そこには おそらく、 まだ 言葉にできない 喪失や 別れの 予感が 重ねられている。
異界が まだ 隣にある 年齢
日本の 臨床心理学者 河合隼雄は、 子どもの 内的世界を 論じた『子どもの宇宙』 (1987 岩波新書) のなかで、 子どもにとっては 現実と 異界の 境界が まだ 地続き である、と 繰り返し 述べている。 大人が 「現実」 と「想像」 を 分けて 生きているのに対し、 子どもは その ふたつを 行き来しながら 自分を 組み立てていく。
柳田國男 『遠野物語』 (1910) には、 山で 山男に 出会った 子どもの 話や、 川の そばで 河童に いたずらされた 子どもの 話が 短く 記されている。 そこに 描かれているのは、 怪異が 日常の 縁側に 座っているような 距離感である。 妖怪は 遠い 山の 向こうの 話 ではなく、 縁の下や 台所の 棚の 裏にいる。 子どもの 感覚は、 この 距離感に 自然に なじむ。
Jung 派の Marie-Louise von Franz が おとぎ話の 心理学で 指摘した ように、 物語のなかの 怪異は しばしば、 内面の 未統合な 部分が 外側に 現れた 像として 機能する。 子どもが 妖怪を「外」 に 見るとき、 じつは 自分の 内側を 整理する 作業を 同時に 行っている。 妖怪が 親しいのは、 それが 自分の 一部だからである。
大人は、 何を すればよいか
では、 子どもが 押し入れの 奥を 指さして「いるよ」と 言ったとき、 大人は どう 振る舞えばよいのか。 「気のせい」 と 笑い飛ばすのは 惜しい。 子どもが せっかく 自分の 不安に 形を 与えようとしている その 動きを、 途中で 折ってしまうことになる。
かといって 過剰に 怖がらせる 必要も ない。 大人ができることは、 おそらく、 一緒に 怖がり、 一緒に 名前を つけることだ。 「ほんとだね、 いるかもね。 どんな 子だろう」。 子どもは その 一言で、 押し入れの 奥の 何かを 名指せる 存在 に 変えていく。 名づけは、 子どもが 不安を 自分の 手で 扱える ところまで 連れてくる ための 作業である。
妖怪の 本は そのとき、 ちょうどいい 仲介者になる。 既に 誰かが 名前を つけ、 姿を 描き、 物語を 添えてくれているからだ。 子どもは そこから 借りて、 自分の 押し入れの 住人に 似たものを 探す。 座敷童子に 近いのか、 それとも もう少し 河童寄りなのか。 そう やって 自分の 中の あいまいな ものに、 ゆっくり 輪郭が ついていく。
親の 側にも、 思い出すことが あるかもしれない。 自分も かつて、 天井の しみを 見ながら、 そこに 何かが いると 信じていた 夜が あったこと。 階段の 一段目を 踏むのを ためらった 夕方が あったこと。 その 感覚は、 大人になっても どこかに 残っている。 子どもと 妖怪の 話を するとき、 ほんの 一瞬、 その 感覚に 戻れる。
押し入れの 隙間を 見ていた 娘は、 しばらくして こちらを 振り向いた。 「ねえ、 ざしきわらしって、 どんな 子?」。 寝る前に 一冊 読もうか、 と 答える。 廊下の 電気を 落とすと、 家が 急に 大きく なる。 その 大きくなった 家の どこかに、 たぶん 今夜も 一人、 増えている。